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| 第5部「その復讐に手を出すな」篇クランクアップ時に撮影された、出演者とスタッフによる記念撮影。いつの時代も大勢の手で傑作は生まれる |
『月光仮面』の生みの親といえば、原作・脚本の川内康範、企画・製作の小林利雄、プロデュースの西村俊一、そして監督の船床定男ということになろうが、総合芸術と呼ばれる映像作品では、むろんそれだけでは済まない。
出演者はもちろん、撮影、照明、音楽、美術、衣裳、結髪(メイク)ほか多勢のスタッフの力がひとつになって、初めて作品というひとつの形を成す。
それらは実際に作品を作る力だが、縁の下の力持ちという言葉通り、作品を外から支える影の功労者も大勢いる。そのなかのひとつにスポンサーがある。いや、功労者どころではない。スポンサーとは、番組を制作する予算を捻出してくれるところ。つまり、スポンサーがいなければ、どんな芸術作品も世にうぶ声をあげることはまかりならないのだ。そういう意味では、原作者や脚本家、監督、プロデューサーが生みの母なら、スポンサーは実の父ということがいえるだろう。
『月光仮面』のスポンサーは武田薬品工業だった。その武田薬品で、番組の宣伝を担当していたのが中尾清義氏である。
中尾氏と宣弘社の繋がりはそもそも戦前にさかのぼる。宣弘社がまだ中村宣弘社だった時代、つまり小林利雄のお父君が社長を務めていたころ、同社は武田薬品のノベルティの制作を請け負っていた。中尾氏と宣弘社の付き合いはそのとき以来だという。その後、日本は開戦に突入。ご他聞に漏れず、中尾氏も赤紙一枚で南洋戦線に派兵された。
「武田薬品の社員として現地で徴用され、武田の社員と軍属という二足のわらじで仕事をしていました。軍では主に、戦争では不可欠なマラリアの特効薬の原料、キニーネを採取してスマトラからジャワへ送る仕事をしていました」
ここでふと脳裏をよぎったのが、同じ宣弘社作品の『快傑ハリマオ』の世界。中尾氏は『ハリマオ』の世界をまさに地でいっていたのだ。
やがて終戦を迎え、中尾氏は本社に復帰。そこでラジオ番組の営業を担当するが、その代理店もまた宣弘社だった。そんなある日、中尾氏は小林よりテレビ番組の企画を持ちかけられる。
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| 第2部「パラダイ王国の秘宝」篇より、白馬にまたがる月光仮面の勇姿!
これぞまさに“和製スーパーマン”だ |
「そのとき、話があったのは医者を主人公にしたドラマだったんです。うちが製薬会社ということもあってのことでしょうが、すでに川内康範先生とは打ち合わせされていて、そんな話が持ち上がったと。でも、なんとなくピンとこないものがあったんですね」
なんと!『月光仮面』の最初の企画は医療ドラマだったのだ。
その後、当時大ヒットしていた外国テレビドラマの『スーパーマン』にあやかり、“和製スーパーマンを作ろう!”というスローガンで三者が一致。晴れて国産初のテレビヒーロー=月光仮面の誕生となった。
連続テレビ映画『月光仮面』の誕生において、武田薬品と中尾氏のお名前も決して外せないことの、何よりの証となるお言葉といえよう。
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